2016年10月31日月曜日

戦争との距離感

オバマ2期目の大統領選挙戦、あいかわらず流れるようなミシェル・オバマのスピーチを聴きながら、僕の心がスッと離れた瞬間があった。離れたというよりは ショックを受けたという方が正確かもしれない。それは、彼女が夫の業績として、オサマ・ビン・ラディンの暗殺をあげたときだった。そう、彼女は大統領の妻 として、自分の夫が人殺しに成功したことを大々的に宣伝して見せたのだ。

昭恵夫人が安倍首相による人殺しを公衆の面前で自慢する姿など、想像すら出来ない。安倍首相はこの秋の国会で、大統領派と副大統領派が銃を持って殺し合い明らかに戦闘状態にある南スーダンへの自衛隊派遣を正当化するために、戦闘状態にあることを否定せざるを得なかった。戦闘地域に自衛官を送ることすら肯定し 得ない日本と、大統領が暗殺作戦を指揮したことが選挙勝利につながるアメリカ。「価値観を共有する両国」というフレーズが陳腐なのは、あまりにも現実離れ しすぎているからだろう。

今夏、フォーティ・ナイナーズの名クオーターバック、コリン・ケイパニック選手が国歌演奏中に直立せず、跪いていたことを巡ってアメリカでは国論を2分する大論争になった。その際、ケイパニックを支持する側の間で、次のグラフィックが流行った。


左側からは生者たちが声を荒げて「立てケイパニック!兵士たちはお前の“(国歌斉唱に)立つ権利“を守るために死んだんだ!」、つまりアメリカという国を守 るために死んでいった兵士たちに失礼だと罵倒している。それに対して右側から(イラクやアフガンで)命を落とした兵士たちが「いや、実際のところ俺らは彼 の”立たない権利“を守るために死んだんだけど…」と呟いている。
これは要するに、アメリカという国の存在意義は国民1人1人の思想信条の自由を擁護することにあり、その保障は国歌斉唱に対してどのような態度をとるかにも及ぶのだから、ケイパニックに起立を強要する議論は建国の理念に反するという、ケイパニック支持派からの批判である。
しかし僕は、ここでもショックを受けた。要するに、どちら側も兵士たちがアメリカの自由、かの国の憲法の理念を守るために命を懸けているという前提に立っているのだ。
この絵を初見したのは、確かバーニー・サンダース支持Facebookア カウントだった。バーニー・サンダースと言えばイラク戦争が侵略戦争であることを当初から喝破し、開戦に反対した数少ない連邦議会議員。そのバーニーを支 持している人たちにすら「自由のために命を賭した戦士たち」という思考がかくも広がっていることに、ずっと戦争をし続けている国の現実を改めて見せつけら れた。

アメリカは「戦争をする国」だ。憲法も社会も国家体制もそのように出来ている。他方、現在の日本は「戦争をしない国」だ。憲法も社会もそのように出来てい る。この両者の隔たりは、太平洋を挟んだ物理的な距離なんかよりも遙かに大きい。ところが第2次安倍政権は、この距離を一気に縮めようとしている。昨年成 立した新安保法制によって、日本の国家体制は「戦争をしない国」から「戦争をする国」へ変容しつつある。しかし日本社会はその急速な変容にまだ付いてきて いない。アメリカ社会と日本社会はまったく違う。「戦争をする社会」と「戦争をしない社会」は全く違う。その違いに着目することが今ほど大事な時代はな い。




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