2016年3月29日火曜日

英語は聞き取れなくて当たり前

日本語と英語では発音や発話の方法が全然違うことも、日本語話者がなかなか英語を聞き取れるようにならないことの一因だろう。
まず日本語の50音と英語のアルファベットでは音が全然違うし、何より子音だけの音が日本語にはないものだから、これを聞いたり発話したりできるようになるのが難しい。
例えば、英語のtは日本語の「た(ta)ち(ti)つ(tsu)て(te)と(to)」のどれとも違う。tはあくまでtの音だ。それゆえ、子音だけの音を発音できるように意識して練習することが、リスニング力向上の近道だと思う。

なかでも難しいのが、thのように日本語には近いものが全くない音。thは舌を突き出し、上下の歯で挟んだ状態で空気を吐き出す音。その理屈は知っている。しかしふだん日本語で生活している限り口や舌をそんなふうに動かすことはないので、いざやろうとしても簡単にはできない。舌や口の周りの筋肉がそういう動きをするようになっていないからだ。最近「英語の筋肉」という言葉は学習書にもよく登場するようになっていて、その理屈は知っていた。しかし渡米した当初の僕にはまだ、覚悟が足りていなかった。

そんな僕を変えてくれたのは、これまたBig Bang TheoryでKerry Cuocoが演じるヒロインPennyだった。彼女が他の登場人物たちにキレて”You are pathetic!!”と怒鳴りつけるシーンがある。カメラはその横顔を映している。patheticのthを発音するとき彼女の舌は、音を消して観たら「あっかんべー」をしてるんじゃないかと思うくらい、歯の間から思い切り突き出されている。英語を話せるようになるためには、ここまでしっかりと舌や口角を動かさないといけないんだと、このとき覚悟が決まった。

thに関して、もう一つ印象に残っているシーンがある。Leonardから南極土産をもらったもののそれが何か分からなくて愛想笑いした後、Pennyが発するセリフ”What is this?”。カメラアングルは彼女の正面。最後のsは本来なら下前歯の裏に舌先を押し当てて息を吐く音。しかしこのシーンで彼女はthiで舌を付きだした後、舌先を歯の中に完全には引っ込めずに下前歯の上に舌先を載せたまま、口を半開きにしてsを発音してセリフを言い終えている。Pennyのアホっぽさを演出するために口を半開きにしてセリフを言い終えたという面もあるだろうけど、thisあるいはWhat is this?を発話するための下と口の動きがよく分かるシーンだったので、繰り返しこのセリフを真似するようになった。

英語特有の音の崩れ、英語にはリエゾンとリダクションがあるのがまた難儀だ。日本語にも音の変化や崩れがあるらしいが(知人の英語教師に教えてもらったけど具体例は忘れた。「ダーリンは外国人」にも同じようなことを書いてたように思う)、その程度がまったく違う。例えば、Whatはワット、 canはキャン、 Iはアイ、 getはゲット、 youはユウだと仮定すると、日本語の発話方法ならそれらをつなげただけ「ワット・キャン・アイ・ゲット・ユウ」で問題ないはず。ところが英語では前の単語の最後の音と後ろの単語の最初の音が連結して音の崩れが生じるので、What can I get youは日本語話者の耳には「ワッキャナイゲッチュウ」と聞こえる。世界の言語には日本語や韓国語あるいはドイツ語のように単語を一つずつ区切って発話する言語と、英語のように一連の文章としてつなげて発話する言語に分けられるそうだ。それぞれをカテゴライズする概念を大学時代に習った気がするが、理屈がなんであれ、日本語話者の耳では自然には英語を聞き取れるようにはならない。

アルクの入門用教材でリエゾンのことを知って、最初はパターンを覚えようとした。しかしほぼ無限にあるパターンを全て覚えることなど出来るはずがない。結局、自分でしゃべるときも自然にリエゾン・リダクションが起こるところまで発音練習を積み重ねることが一番近道なんだと思う。ただし、スポーツでも語学でも何でも、自分でトレーニング方法を考案できる中級者レベルまで達することが一番困難。その点、自分が受けてきたトレーニングの中では日米英語学院の高木先生のLinking&Reductionメソッド、使用頻度の高い英文を耳から聞こえるままにカタカナ表記して、それがスムーズに出てくるようになるまで繰り返すことが最も効率的だったと思う。

次回は日本語話者にとって英語が難しい3つめの理由、語源その他文化的背景の壁について。






2016年3月22日火曜日

英語が難しい理由

いま巷では簡単に、あるいは短期間に英語を身に付けられることを謳う本や教材が溢れている。しかし、英語習得は日本語話者には難しい、この動かしがたい事実を直視することこそが上達への近道だというのが僕の持論。

なぜ英語習得は日本語を母語とする者にとって難しいのか。それは文法、発音発話、語源その他文化的背景、言語を構成する全ての要素において日本語と英語は全く違う、というかむしろ真逆だから。

日本語と英語では文法構造が全く違うこと、これが最大のネック。英語では主語の次に動詞が来る、これによりリスニングも難しくなるけど何より話すこと=スピーキングの障害がものすごく大きくなる。主語の次に動詞や助動詞が来る発想に頭を切り換えるのは本当に大変なことで、「思ったことが話せない」というのは日本語話者にとって当たり前のこと。語順が違うと単に単語の並び方が違うにとどまらず、表現を練り上げるときの発想が根本的に違ってくる。そのため日本語話者は、前のブログにも書いたように、意味の似た単語を変換させていくのではなく「英語話者ならどう言うか?」と発想を完全に切り替えなくてはならなくなる。

英語学校でクラスメイトだったトルコ人女性とこの話題で盛り上がったことがある。彼女に教えてもらって初めて知ったけど、トルコ語も日本語と同じ文法構造らしい。そのためトルコは現在では筆記文字としてアルファベットを導入しているが、やはり英語のスピーキングが苦手だと言っていた。ちなみに彼女は夫の仕事の関係でしばらく仙台に住んでいたため、日本語は堪能だった。

これに対して英語と同じ文法構造を持つ言語、例えばドイツ語やスペイン語圏の人々は、英単語を暗記して母語と入れ替えていくだけで英語をしゃべれるようになるようだ。想像に過ぎないけど、中国標準語を母語とする人たちも英語習得にはそんなに苦労していないんじゃないだろうか。
主語→動詞→目的語という語順が同じなら、自分の母語と近い英単語をチョイスして入れ替えていくだけで、だいたい言いたいことは言えるのだろう。移民を主たる対象としているバークレー市アダルトスクールのESLクラスに来ている生徒には、けっこう流暢に英語を話すわりにライティングや文法が苦手な人も少なくなかった。スペイン語などを母語とする彼らにとっては、日常生活で多用することもあり、スピーキングが最も自然に身につけられる英語能力なのかもしれない。

僕ら日本語話者は、日本語と語順が同じ外国語であれば、きっと英語ほどには苦労せず習得できるのだろう。例えば、朝鮮韓国語やトルコ語、ビルマ語など。そう考えると、大英帝国に成り代わって世界を支配する国がアメリカではなく、せめて日本語と同じ語順を母語とする国であれば良かったのになどと不埒なことも考えてしまう。残念ながら、そんな夢想をしていても英語はいっこうに上達しない。

次回は2つめの理由、発音発話の壁について。

2016年3月15日火曜日

This photo almost kills me with sadness.

http://www.bbc.com/news/blogs-trending-32121732

カメラを向けられた途端、両手を挙げたシリア難民の少女。
パレスチナ(ガザ)のジャーナリストによって英語でツイートされたこの写真。1万回以上もリツイートされたものの、説明がなかったがためにガセじゃないか と批判も集中したとのこと。そこでイギリスBBCが追跡調査した結果、元ネタはトルコの新聞でありガセではなかったことが判明したとの記事。
BBCのジャーナリスト魂に感嘆するとともに、こんな4歳児が無数にいるのだと思うと胸がつぶれそうになります。

2016年3月11日金曜日

「英語で何て言うの?」をやめる

「Rちゃんのパパぁ!みてぇ!どろだんごつくってん!」
保育園でこういう場面に出くわすたび脳裏に浮かぶ言葉は、”That's so sweet.”

直訳すれば「めっちゃかわいい」といったところか。しかし英語のsweetと日本語の「かわいい」ではニュアンスが違う。例えば、女性が彼氏からプレゼントをもらって"That's so sweet!"って言うシーンを、アメリカのTVドラマでよく見かける。この場面で女性がsweetと形容してるのは、プレゼントを用意してくれた彼氏の行為そのものだ。大人が大人にしてもらった行為を日本では「かわいい」とは言わないから、この場面のsweetは「かわいい」とは訳せない。

「かわいい」と訳しうる英単語はcute, adorable, beautiful, prettyなど他にもあるが、それぞれ使う場面とニュアンスが異なる。その違いを見分けるのが非ネイティヴには難しいが、地道に学ぶしかない。

例えばcuteは大人が子どもを「かわいい」と言うときにも使うが、女性が男性の容姿を褒めるときに使われることが多いように思う(一度だけ女性に言われて有頂天になった)。逆に男性が女性に使うのは、今のところは見たことがないが、映画「ミルク」の中でゲイの男性が同じくゲイの男性に対して使っていた。

adorableは小さい子どもに対してよく使われる。僕の中では「可愛らしい」と変換されることが多い。でも米コメディBig Bang Theory中、今から紹介してもらえる女性はHOTであってほしいと言うハワードに対し、ペニーが冷たく"She is adorable."と言い捨てるシーンがある。可愛らしい人に対してなら大人の女性にもadorableは使って良いのだろう。

日本では「かわいい」に相当する英単語といえば、真っ先にprettyが出てくることが多いように思う。しかし僕自身は、この言葉が人を形容するのに使われた場面を1度も見聞きしたことがない。「かわいい」という意味で使われてるのですら、ペニーが衝動買いしてしまった高価な靴に"pretty, pretty, pretty"と呟いているのが唯一だ。

CaliforniaのBerkeleyに住んでいたとき、子連れで歩いているときやバスに乗っているときによく言われたのがbeautiful。あちらには子どもを日本語で言うところの「美しい」と形容する文化があるのかもしれないが、へちゃっとした典型的なモンゴロイド顔の甥っ子を抱っこしてても言われたので、beautifulには「かわいい」というニュアンスもあるのだと思う。
カミさんが子どもを連れて歩いていたとき、前方から奥さんと一緒に歩いてきた老紳士がしゃがみ込み、うちの子に向かって”You are so beautiful. Yes, you are.”と言って去って行ったことがあった。カミさんからの又聞きではあるがいかにもカリフォルニアらしいエピソードであるとともに、アメリカ人はこういう表現をするのかと強く印象に残っている。

地方出身者なら、他の地方の人に自分の地元特有の言葉を説明しようとしてできなかった経験が、一度はあるだろう。そのまま当てはまる言葉が標準語にないからだ。例えば「いちびり」。お調子者でくだらないことを繰り返す者を指す関西の方言で、その対象を見下すニュアンスがある。これにずばり対応する名詞は日本語標準語にはない。だから標準語には直訳はできない。「それ標準語では何て言うの?」という質問は成り立たない。

日本語同士でもそうなのだから、日本語と英語ならなおさらだ。「それを英語にしたらどう言うの?」という思考は、その発想からして間違っている。「英語にする」ことのできる日本語なんてほとんど存在しない、日本語にばっちり対応する英語なんてあり得ないと思った方がいい。

この日本語を英語にそのまま変換しようとする思考を捨て去ることは、中学校入学以来ずっとそうして来た僕には、なかなか難しい作業だった。しかし「英語に直す」のを止めて、「この場面でこういう趣旨のことを言いたい時アメリカ人ならどういうだろう?」と思考方法を変えてから、上達のスピードがずいぶん上がった感覚がある。
例えば「いくら何でも政治家がこんな馬鹿なツイートをするはずがない」を英語にするとどうなるか?直訳するなら”Politicians must not tweet such a foolish comment.”といったところだろうか。これに対して僕が「アメリカ人ならこう表現するんじゃないか」と考えた上で選んだのはこれ。

”No politician was supposed to tweet such a ridiculous comment. ”

もちろんこれが正解である、ネイティブの感覚に近いという自信はない。そこまでの英語力が自分にあるとはうぬぼれていない。でも大事なことは、単語を一つずつ置き換える悪しき受験勉強的思考を止めて、全く言語発想が異なる英語話者の立場に想像を巡らせる作業を地道に続けることだと思っている。ニュースやドラマを見てても、この「アメリカ人なら?」(「イギリス人なら?」「フィリピン人なら?」でもOK)という思考訓練を続けていると、「なるほど。こういう場面で英語ネイティブはこういう表現を使うのか!?」と気付く機会が徐々に増えてきた実感がある。

日本語と英語は単語レベルでも文章レベルでも本来互換性がない、こう割り切ったころから英語力は本格的に伸び始めるものだと思う。






2016年3月8日火曜日

サウジ初の女性政治家 地方議会選で選出

http://www.bbc.com/japanese/35089901
BBCニュース日本版より

とある英語学校に通っていたとき、クラスメイトの約半数はなぜか、サウジアラビアからの若い学生たちだった。さらにその半数は既婚者子持ちの女性 で、夫の留学に伴って渡米してきたとのことだけど、みな一様に最低でも修士号とグリーンカード、できれば博士号とアメリカ国籍を取得して帰りたいと言って いた。途上国の出身者ならともかく、経済的に発達しているサウジの子たちがあんなにも野心的であることに驚いた。ヒジャブを被ってて全身黒ずくめで、時間 になったら廊下にマットを敷いてお祈りしてと見た目は保守的なんだけど「夫を支えるために」って感じの人はいなかった。

クラスで家族についてディスカッションしたとき、あるサウジの子が「夫がもう何人か子どもがほしいと言ってるけど、家事も育児もほとんど何もできへんくせ に何言うてんねん!生まれた子供の世話は誰がするおもてんねん!アホか!?」とまくし立てたら、イタリア人女性が「そうそう、うちの夫も子どもでサッカー チーム作りたいとかぬかしとおる!頭おかしいんちゃうか!?」と大盛り上がりし、僕ともう1人の日本人男性は黙ったまま小さくなって座ってたこともあった。

1人だけヒジャブを被っていない女子学生がいた。格好も民族衣装ではなく洋服の普段着だ。大家族の末っ子で、女性だからと特別視しない父親の下、自由闊達 に育ってきたらしい。スキニーデニムを買ったんだと嬉しそうに話していた。サウジでは体のラインが出るような格好で女性が外に出るのは禁止されているか ら、当然のことながらスキニーパンツを履いての外出は違法。自由な気風の自宅内とそれと真逆のサウジ社会との間でストレスを感じながら暮らしてきたこと が、彼女の話の端々から感じられた。

  朗らかで、とても知性とユーモアに富んだ人で、彼女の話はいつも面白楽しかった。最も印象に残っているのは、彼女の友だちで一番の美人がお見合いをした 話。家族以外の男性に素顔をさらしてはいけないという慣習に基づき、奥ゆかしいその友人はお見合いのときも顔を隠していた。そのため見合い相手の男性はそ の大人しいキャラからつまらない女だと判断し、結婚を断ったとのこと。彼女はその男性のことを「すごい美女と結婚するチャンスを逃したアホな男だ。アイツ は本当にアホだ」と罵っていたけど、「外見がまったく分からないんだから仕方ないよね」と僕はその男性に少し同情した。

以来、1度も行ったことのないサウジアラビアで暮らす人たちに、何となく親近感を感じている。選挙権が法律上認められたとはいえ、女性が投票することが実 質的にいろいろと制限されていたらしく、かなりの男性票も獲得しないと当選しないと言われていた選挙で、しかも女性選挙権が初めて認められた選挙で、数人 とはいえ複数人の女性当選者が出たのはなかなかの快挙なんじゃなかろうか。願わくば、元クラスメイトたちがあの素晴らしい個性を自由に発揮できる社会へと 一気呵成に向かっていくきっかけに、今回の選挙がなってほしいと思う。

2016年3月4日金曜日

教育を受ける権利、学習権について

「午前中に自分の膝の上に座らせて本を読んであげた生徒が、その日の午後に亡くなったことがある」特別支援学校を訪問した際に、校長先生から聞かせてもらったお話。

たとえ近日中に亡くなることがわかっていても子どもには亡くなるその瞬間まで学習権がある、子どもの学習権は未来の大人を作るためだけのものではない、なぜなら学習権は人権だから。先の校長先生の体験を聞いたとき、専門家を自認していながらそんな当たり前のことに認識してなかった自分に気付いて、思わず赤面した。

ある文科相官僚にこの話をしたところ、
「確かにそうだね。例えば不法滞在で親とともに強制送還される子どもがいたとしても、そんなことは自分たち(文科省官僚)には関係ない。日本の領土を離れるその瞬間まで、その子に教育の機会を提供するのが自分たちの仕事だから」
そう言いきった。私人間の紛争解決を生活の糧としている弁護士よりは、憲法に基づいて日々の業務を遂行している行政官僚の方がよほど人権感覚に優れているようだ。

経済の発展。平和な社会の構築。教育の充実によって得られる社会的恩恵は計り知れない。しかしそれらは副次的効果であって、あくまで教育は1人1人の個人の幸せのために保障されるものである。それが学習権という思想であり、日本国憲法や子どもの権利条約の考え方である。教育に対する考え方やアプローチは様々あり得るけど、少なくとも法律家はここを外してはならない。